「ブログ」カテゴリーアーカイブ

森林浴とは命浴

よく自分を取り戻す方法として、自然の中に入ることがいいと聞く。

林の中裸足で土を踏むとか、ただ自然を感じながらゆっくり山を登るとか。

人だって動物だから、

しかしなぜかその動物である人間が作った人工物の中に居続けると心は疲れ、自然の中に入ると自が整う。

コンクリートジャングルの中になくて、樹々の生い茂る山の中にあるもの。

それは、やはり命だ。

生命しかない。それは、今生まれたものから成長するもの、朽ちようとするもの、もう朽ち果てたもの。

どの段階でも命が存在していて、していたもの。そして、そこからまた生まれるもの。

森林浴をするということは、命を浴びるということ。止めどない命と繋がることで、人間は自が整い元気になるということ。

グラウンディング、マインドフルネス瞑想、右脳と繋がる…みんな、今ここにある自然と繋がると人間整うよと言っている。

だから、私は命の制作が止められない。

自分も自然と繋がりたいし、人にも命の呼吸を感じて欲しい。

そして、私の作品を感じた人々が自然の中の自分と深く繋がって整えられたら素晴らしい。

 

「equal」(イコール)という作品をもう長い間作り続けている。

アートフェアで展示すると、最近では必ず繋がってくれる方と巡り会う。

その作品では、上皿天秤の両皿に私は人の命を乗せる。

2つの全く違う大きさと形のオブジェを乗せ、その重さが釣り合うことで人の見た目・個性の違いで命の価値は変わらないというメッセージなのだが、

今、その命に共鳴してくれる人が確実に増えている。

それは森林浴のような体感であり、自然の命との繋がり。

しかもその天秤に乗るオブジェ、焼かない粘土で作られているため湿度によって水分を吸ったり吐いたり、日によって重さが釣り合わないこともあるという、本当に命を吹き込んだような作り。

どうか私の作品を見ることで、あなたの生命の自が整いますように。そんなことを思いながら日々制作していたりします。

カラスの黒、黒のバリエーションについて

夕暮れ時、目を光らせたカラスの群れがギャーギャーと騒ぎながら飛び去り、赤黒い太陽と溶け合ってゆく…。

何か不吉なことが起きる予兆としてたびたび映像に入れられるが、悪いものを指すことが多い黒い鳥、烏。

しかし、こんな蝶の名前を聞いたことはあるだろうか?。

「カラスアゲハ」

カラスアゲハとは、日本にいる烏のように黒いアゲハ蝶。

しかしこれとは別に、「クロアゲハ」という種類のアゲハ蝶もいる。

烏も黒いのに?ということは、烏の黒は、ただの黒ではないということである。

 

カラスの黒は、烏羽色、濡れ羽色ともいい、濃く艶のある黒に青や緑が混ざった色を指す。

正面からはただの黒に見えても、光の加減で青や緑が現れる、それは美しい色。

「髪は烏の濡れ羽色」

これは、日本女性のしっとりと艶のある美しい黒髪を指す表現。

茶髪にするなんてもったいない。カラスの黒は色気のある黒なのだ。

 

とうのカラスアゲハは、以前は山まで行かなくても田んぼのある地域ではたまに見られたが、今でも見られるのだろうか。

割といるクロアゲハとは違い、キラキラと透き通った青と黒の色合いがとても美しいので、会えるととても感動もの。

鳥の烏はもちろん今でもよく見られるので、1m程の近さに止まっていると凝視して色の確認をしてしまい烏に迷惑がられるのだが。

 

黒繋がりでいうと、最近私が作品で使い始めた黒の絵の具に、暗黒ブラックという色がある。

ネーミングセンスが素晴らしい。

この黒、光を通さない吸収する黒なのだ。

表面では留まらず奥へ食い込んでくる。呼吸の吸い込む感覚に近い黒。

日本人は、黒への意識がとても深く強い。

それは今でも続くもののようである。

 

まるに惹かれる心理

ついつい目がいく、好きな形はあるだろうか?。

作品は作家の心を形にして、言わば普段隠しているものまでさらけ出すわけだが、

形というものには個性とは別に、人類共通の感覚が存在しているのだそう。

 

私は作品で球体をよく作るが、丸いものというのは赤ちゃんが脳内で最初に認識する形。

人は生まれてから見えてくる形の中で、丸いものを認知する分野から発達していく。

子供向けのアニメキャラクターに丸いデザインが多いのも、子供が一番惹かれる形だから。

丸い形には、攻撃性を抑えたり、保護本能を働かせる作用もある。

男女ともそうだが、特に母親となる女性には、丸く、小さく、やわらかいものを守りたいという本能があり、赤ちゃん(特に自分の赤ちゃん)が可愛く見えるというのも、育児本能のなせる業。

丸い(小さい)→可愛い→触りたい・守りたい

これは、動物の赤ちゃんや、物にまで生じる不思議な本能。

そして大人になった人々は、丸い形に色々な意味合いを持たせていく。

丸く収める

元に戻る

輪廻

永遠に続く…

私が丸に惹かれるのは、始まりも終わりもない、永遠を表現できるからなのだと思う。

人は生後、いつから自分が存在していると意識し、そして死んだとき、ああ自分は死んだのだと意識できるのだろうか?。

肉体に始まりと終わりはあるが、意識に明確な終始はあるのだろうか?。

いや、生まれてきた自覚すらないのだから、死を自覚などさせてもらえそうにない気がする。自覚できている時点でまだ生きているということになるだろうし。

結局、死はない、自覚できる生を全うするだけということになる。

ということで、生きているうちは地球の生命を造形していく旅を続けようと思う。

お腹から命の呼吸を一緒にしたい方、よければお付き合いを。

神木・巨木巡礼3 屋久島 屋久杉とガジュマル

前回はタイ、アユタヤの菩提樹について書いたが、

やはり巨樹、巨木で一番衝撃を受けたのは、日本の屋久島。

今回は、約十数年通い続けた屋久島で出会った巨樹の数々を紹介したい。

 

まずは、屋久島の地形について。

鹿児島から約60㎞南にある鹿児島県屋久島は亜熱帯の小さな島だが、地上から一番高い山、宮之浦岳までの標高差はなんと1936m。

この約2000m級、九州最高峰の宮之浦岳を中心に周りを前岳が囲み、ほぼ円形の島の外周部分に島民が住んでいる。

植物は標高に応じて育つ種類が変わる。

そのため、この島には高山植物から亜熱帯植物まで驚くほど多種の植物が存在することとなり、特に日本の寒冷地帯に育つ植物の中には、屋久島が分布の南限になっているものも多くある。

山の上では雪が降っているのに、麓ではハイビスカスや芙蓉の花が咲いている…という光景は、もう屋久島の冬の名物。

 

<標高の高い位置に存在する屋久杉と深い森>

・仏陀杉

屋久島で大きな杉の木を見に行くには、地上付近にある登山道から大きな杉の生える標高500~700mほどの所まで森の中を登山するか、

車で山道を登り、屋久杉ランド、白谷雲水峡などの木道で整備された森まで行く。(木道は手前のみで、奥に森を散策できる登山コースが続く。)

または同じく車で山道を登り、ある程度標高のある位置に用意された登山口から登山をスタート。

縄文杉などはこのルートが一般的で、登山口からで往復10時間ほど掛かるので、登山初心者には修行のようなコース。

 

さて、そしてこの仏陀杉だが、この樹は屋久杉ランドの木道沿いで見られる屋久杉。

屋久杉とは約1000年以上たった巨木の事を指し、それ以下は小杉と呼ぶのだが、小杉でも十分大きいものがたくさんあるので表記されていないと差が分からない。

幹のうねりやこぶ、木肌がかさぶたの様になってい所など、長く生きた重みを感じる巨木。ただかなり弱っているそうなので、触らずに見るだけで感じてほしい樹。

 

・・屋久杉の森について・・

このスケッチは、屋久杉ランドや白谷雲水峡の奥にある森。

岩々や倒木は苔に包まれ、光の当たるところには若い杉が育ち始める。

屋久島の森では、激しい大雨や台風で巨樹は倒され、空が開いたところに光を好む杉が新たに芽を出す。

よく倒木の上に芽を出したりしてかわいらしいが、いずれその倒木を包み込むほど大きく成長し、森の世代更新をしていくことに。

このスケッチをしている時は、自分にも苔が生えてくるのではないかというほど、緑の世界に入り込んで描いていた。

気付いたら、少し後ろからヤクシカに眺められていたことも。

 

 

<麓の亜熱帯植物>

・何が何だか、猿川のガジュマル・

次は山から下り、島の外周部分の亜熱帯気候に生える巨樹。

ほぼ円形の屋久島には、島の輪郭を描くように道路が走っており、その外周から山の方へ登っていく道がいくつも伸びているわけだが、外周道路付近のあちこちに、沖縄などでよく見るガジュマルやアコウの巨樹が存在している。

スケッチのガジュマルは、道路から中の林へ入ったところにあり、木根が好き放題に伸び、もうどこから始まっているのかも分からない。

この樹種は絞殺木と呼ばれており、支えとなる別の木に木根を絡ませ、いずれは絞め殺してしまう。巨木にもなるが、大元の幹の中には支えとなった別の木がある可能性も…。

 

 

・・人と生活を共にするアコウやガジュマル・・

 

この巨樹たちは、民家や道路の脇にどしんと根を張り葉を広げ、屋久島の暑い夏、人々に木陰を提供してくれる樹。

本州でいうと、クスノキのような存在。

 

初めてこのアコウの木を集落の道路脇で見かけた時は、あまりのインパクトの強さに怖さすら感じたが、この樹は学校などにも生えており屋久島の方たちには当たり前の存在。

 

 

・・・浜辺にて・・・

これはおまけスケッチ、流木。

屋久島の海はダイビングにも適した美しい海で、浜辺には流木やサンゴのかけらが多く見られる。

山から海まで堪能しようよしたら、最低一週間は滞在したい島。

 

島のほとんどを山で占める屋久島には、昔から山岳信仰があり、宮之浦岳を囲う前岳の麓の集落では、自分の集落から見える山をそれぞれ崇めてきた。

なので、その神の領域である奥山に育つ屋久杉を伐採することはなかったのだが、それも江戸時代になると特別な建築の資材として、大量の伐採が始まる。

今残っている1000年以上の屋久杉は、その時代に建築資材としては使いにくかったものが切られずに済んだともいわれている。

今は世界遺産として守られるようになり、それゆえに人が大勢山に入ることでの弊害も生まれてきてしまっているが、巨木をはじめ、自然全体を大切にしていきたい島。

神木・巨木巡礼2 タイ・アユタヤ ワット・マハタートの菩提樹

神秘的な巨樹と出会うと、しばらく立ちすくんでしまう。

今では巨樹もパワースポットとなって賑やかな場所もあるかもしれないが、できれば一人静かに樹との対話をしたいところ。

そんな私が出会った対話をしたくなる巨樹を紹介したいと思う。

 

・タイ アユタヤ  <ワット・マハタートの菩提樹と仏頭>

いきなり海外の巨樹だが、今回の写真は私がタイを旅した時にスケッチしたもの。

ワット・マハタートはアユタヤ王朝の寺院遺跡で、その中にこの菩提樹はたたずんでいる。観光地としてもとても有名な所。

 

釈迦がその下で悟りを開いたという菩提樹(インドボダイジュ)。

この樹自体は、タイでは日本の桜の木の様にあちこちに生えているので特に珍しいものではないが、このワット・マハタートの菩提樹は、石仏の頭部を根に抱えて成長している。

タイは1760年代、ビルマ(現ミャンマー)の軍に攻撃を受け、戦争状態になった。

そして、ワット・マハタートの寺院や仏像は激しく破壊されることになる。

その当時、仏像の頭部には金箔が貼られていたらしく、ビルマ軍は仏頭のみ切り取り持ち去ったため、その時放置されたものが菩提樹に取り込まれ、今に至っているということ。

なので、菩提樹と仏頭という有難そうな組み合わせのこの樹の周りには、戦争で荒れ果てて廃墟となった寺院遺跡と、頭部のない石仏がずらりと並んでいる。

 

この菩提樹が今何歳かは分からないが、仏頭を抱えるように成長した250年という時間を思いながら、スケッチをした。

もしタイに行く機会があったら、ぜひアユタヤにも寄ってみてくほしい。ひっそりとその樹は仏頭と共に存在し、私たちを出迎えてくれる。

大樹・巨木巡礼1

お釈迦様ではないけれど、大樹の下で深呼吸がしたい。

学生時代、スケッチブック片手にリュック一つで九州~屋久島を旅して以来、すっかり大樹の虜となり、樹木に会いに行く旅をするようになった。

寒さに弱いせいか西の方にばかり興味があったので場所に偏りはあるが、出会った大樹について書いてみたいと思う。

 

まずは、そこまで興味はないが巨木には定義があるようなので、一応触れておく。

1988年、環境庁(現・環境省)が発行している「日本の巨樹・巨木林」リストより。

巨木は国や都道府県の天然記念物に指定されているものも多いので、守るという意味では貴重なリスト。

規定サイズは、地上130㎝の位置での幹周りが300㎝以上、

全国で巨木になるのが多い樹種は、

1位 スギ 2位 ケヤキ 3位 クスノキ

4位 イチョウ 5位 シイノキ。

この辺の種類は、神社に行くと神木にされ大切に祀られているものも多い。

それもそのはず、巨木の所有者の約60%が神社だそう。

特に街中で巨木にまで成長するには、人や社会の手助けが必要不可欠ということ。

 

そして面白いのが、高知や南九州の方に南下していくと巨大化してゆく5位以降の樹種。

それがアコウやガジュマルなどのクワ科の樹木。

この樹木は大変不思議な木で、太い枝から木根をいくつも下に伸ばし、地面に着地。

巨木になるともう樹形はぐちゃぐちゃで、どこから生え始めたのかも分からない。

屋久島でスケッチをしていたころは、森の立派な杉の巨木を描き終えた後は集落に降り、あちこちの家の脇に生えているアコウやガジュマルの大木を描くことに夢中になった。

本州の学校や公園では桜やケヤキ、イチョウが多いイメージだが(あくまで日本の西寄り)、これが屋久島より南になると、校庭にガジュマルやアコウというのがお馴染みとなる。

南の島の子供は、こういう木に木登りして育つのだろう。

気候の違いは、育つ環境に大きく違いが出てくる。

 

巨樹に会い、その育った年月を思うと、自分がとても小さく見える。誰にでも、昔から自分を見てくれているような樹が一つはあるのではないだろうか。

大きなまっ黄色のイチョウの木の下をくぐって毎日通学した人、

神社の御神木のくすのきの前に深呼吸をしにいく人、

ガジュマルの木根にぶら下がって友達とターザンごっこをした人…。

 

森の中の荘厳な巨樹、生活の場のちょっとはずれにドスンと座っている巨樹、どちらもその前に立って樹木の歴史と自分の歴史を一体に感じられた時、

地球に住んでいる不思議さと面白さを味わえる気がする。